会津若松市内

西郷頼母邸跡 本一之丁の北側甲賀町通の東にあった。現在の追手町。
明治元年8月23日、籠城の足手まといになることを恐れた西郷頼母の家族や縁者ら21人が自刃した。

善龍寺西郷頼母・妻千恵子墓西郷家・小森家二十一人墓
萱野権兵衛邸跡 本一之丁の北側、西郷邸の東に並び、東は六日町通まで。
現在は埋蔵文化物管理センターなどが建つ。


阿弥陀寺萱野長修遥拝碑
鶴ヶ城萱野国老殉節碑
天寧寺萱野権兵衛墓郡長正墓
内藤介右衛門邸跡 本一之丁。大手口の西北角、甲賀町通りを挟んで西郷邸の向かい。
現在は福島地方裁判所会津若松支部になっている。
前庭は白露邸と呼ばれ藩政時代の面影をとどめている。

泰雲寺内藤氏家属墓
山川大蔵邸跡 現在は宮泉銘醸の駐車場になっている。
柴四朗、五郎邸跡 本二之丁。現在はつばくろ公園になっている。

恵倫寺柴四朗墓柴五郎墓
柴五郎生誕之地碑 柴邸跡に建つ標柱。
山本覚馬・新島八重生誕の碑 米代四之丁の北側中ほど。

光明寺(一ノ堰)山本権八墓
日新館跡 会津藩の藩校。
天明8年(1788)に5代藩主容頌が家老田中玄宰の建言で創立。
藩士の子弟10歳以上の就学を規定。漢学を中心に皇学、神道、洋学、武学を教えた。
学業の進度により4等級に編成され試験により進級する制度であった。
成績優秀者は至善堂(大学校)に進み、一定の成績に達しないものは退塾を許さず、家督相続で扶持を減じられたりした。
戊辰戦争では臨時病院となっていたが、西軍の陣地として使用されないために火を掛けられ消失した。
日新館天文台跡 基底12間余、台上方5間半、高さ3間半で、天文学習の観測場であった。
日新館の施設で現存する唯一の遺構である。
降伏式式場 明治元年9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた鶴ヶ城に、遂に降伏の白旗が掲げられ、その日の正午、薩摩藩軍監の中村半次郎を迎え、この地で降伏の儀式が執り行われた。
式場には緋毛氈が敷かれ、その上で松平容保、喜徳親子によって降伏の調印がなされた。
式終了後、会津藩士達はこの無念を忘れないように緋毛氈を切り取って持ち帰った。後にこの毛氈は泣血氈とよばれた。
天神橋 西軍は8月23日の早朝に若松の城下に侵攻してきたが、鶴ヶ城は思いのほか堅固で、西軍は翌日になっても城を攻め落とすことはできなかった。
このとき、長州藩の将有地品之允は、城の南面が防備上弱点があることを知り、一隊を率いて密かに城の東南方から湯川を渡り、城南の静松寺墓地内に大砲を据え、折りを見て熊野口より一気に三ノ丸に攻め入る構えを見せていた。
手薄な城内では各所の防禦に追われていて、熊野口にまで人を配置する余裕が無かった。藩主容保は石黒常松に命じ、城中から戦闘員を集めさせた。このとき集められたのは吏胥・学者・無役の者たちが主で、しかも僅か38人であった。
午後3時頃、有地の一隊は大砲の援護を受けながら天神橋を渡り、南門を突こうとした。城兵らは武井柯亭指揮のもとに槍先を揃えて打って出た。すると有地の一隊は算を乱して南岸に退却したが、勝ちに乗じて追おうとする城兵らに対し、静松寺墓地内に拠る有地の狙撃兵らは一斉に射撃を浴びせてきた。
これによって天神河原は彼我の屍で累々となり湯川の水は真っ赤に染まったという。
天寧寺町土塁 蒲生氏郷の時代は天寧寺町口が城に入る正門であった。
鶴ヶ城の外郭を巡っていた長大な土塁のうち唯一の遺構。
甲賀町口郭門跡 8月23日、家老田中土佐は、近所の藩士宅から畳を運ばせてこれを門前に積み胸壁にしようとしたが、僅か数畳を横に並べたところへ早くも敵弾が飛来してこれを貫き防禦の役に立たなかった。
この郭門に進攻してきた西軍は、中村半次郎・小笠原謙吉の率いる薩摩と土佐の精兵であった。
これに対し会津兵は蜷川友次郎、田原助左衛門らがまず門を開いて踊り出し、田中土佐・黒河内式部の指揮で幼少組隊長佐瀬精五郎、砲兵隊長井深数馬、遊撃組頭馬場清兵衛が各々手兵を率いて突っ込んでいったが、この場における会津兵は銃を持つ者は極めて稀で、武器とするものは刀槍だけであったから、忽ち敵の狙撃に遭って死傷するもの続出。
井上丘隅、山内遊翁、牧原一郎、原新五右衛門、春日郡蔵、高橋伴之助、三宅弥七、柳田自休、多賀谷勝左衛門、丸山弥次右衛門、宇南山良蔵らは味方の屍を踏み越え踏み越え、刀槍をかざして奮戦するが、敵兵は益々加わって凄惨・悲壮の死闘が展開された。
田中土佐は藩医・土屋一庵邸に入り神保内蔵助、土屋一庵と共に自刃した。
戊辰戦争中最大の激戦といわれている。
桂林寺町口郭門跡 8月23日に激戦が展開された。
薩摩、長州、彦根、大垣、岡山の兵をもって桂林寺町口、並びに融通寺町口を猛攻してきた。
これに対し、桂林寺町口を守備する会津は青龍隊の兵約100人。諏方神社の側に塁を築いて防戦し、一時は西軍を退けたものの、川原町口、融通寺町口が危急となったため大半の兵は援軍に転出。桂林寺町口を守備するのは小山田伝四郎の一小隊のみとなった。しかし融通寺町口、川原町口、大町口と相次いで破られて小山田隊は孤立無援となり、伝四郎の子辰治をはじめ多数の戦死者を出した。
野矢常方もここで戦死した。

大窪山墓地野矢常方墓
大運寺野矢常方翁拝石
清水屋旅館跡 越後高田藩の定宿であった。
吉田松陰が東北亡命の旅で、戊辰戦争では土方歳三が宿泊した。
明治15年3月には町野主水ら帝政党員が宿泊中の宇田成一ら自由党員を襲撃した清水屋事件の舞台ともなった。
上米塚の渡し 激戦が展開された。
高久村本陣永井家 萱野権兵衛が指揮する会津藩兵が本陣とした。
9月5日、西軍は遅々として進展しない戦線を打破すべく、すでに若松に入っていた薩摩、長州、土佐、佐賀、和歌山、彦根、柳川の各藩兵を舟渡へ進発させた。
西軍がまずむかったのは高久であり、これにより会津藩兵は塩川へ退却した。
一箕山八幡神社 8月23日、国産奉行河原善左衛門が拝殿前でその一統と共に戦死。

大窪山墓地河原善左衛門墓
不動滝 白虎士中二番隊の伊東悌次郎、池上新太郎、津田捨蔵の3人の遺体が滝の上で発見された。
弁天洞窟 白虎隊士中二番隊士が飯盛山へ退却する際に潜った洞門の入り口側。