泰雲寺
内藤氏家属墓 | 以下、明治元年9月17日会津面川泰雲寺にて自刃。 内藤可隠・・・2200石、介右衛門の父。隠居。67歳。 内藤モト・・・つやとも。可隠の妻。58歳。 内藤フサ・・・ひさとも。介右衛門の妻。23歳。 内藤ヒデ・・・介右衛門の娘。6歳。 内藤英馬・・・介右衛門の伜。3歳。 内藤ジュウ・・・介右衛門の姪。23歳。 内藤トク・・・介右衛門の妹。19歳。 内藤ツグ・・・介右衛門の妹。17歳。 内藤セイ・・・介右衛門の伯母。年齢不詳。 |
梶原平馬墓 | 可隠次男。梶原家の養子となる。 文久2年、藩主松平容保が京都守護職として上洛するや、平馬はつねに側近として随従した。 慶応2年家老職に進み、国事に奔走していたが、鳥羽伏見の敗戦により容保らが会津に帰国した後は江戸に残留し、エドワード・スネルから小銃800挺、ならびに武器弾薬を買い付けて新潟港に回航した。また奥羽越列藩同盟の結成に各藩の家老が仙台領白石に集合した際はその陰にあって奔走し、籠城中は城内にあって内政を担当した。 その後平馬は米沢藩を介して降伏の交渉を行い、若松開城の際には開城式に臨み、西軍の軍監中村半次郎に諸藩老連署の書状を手渡した。 明治3年に斗南に移住し、廃藩置県後は青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その直後に平馬は姿を消した。その後の消息は不明である。 没年不詳。近年、北海道根室市に墓があることが判明した。 |
武川信臣墓 | 内藤介右衛門、梶原平馬の弟。 鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に帰った後、藩士の帰国には従わず彰義隊に加わり別働隊幡随院分屯信意隊長として上野で戦い、敗れた後、江戸市中に潜伏中を使用人に密告され捕らえられる。 拷問にめげず節を守り、明治元年10月9日、獄中で斬首。23歳。 |
上田氏家属墓 | 以下、明治元年9月17日会津面川泰雲寺にて自刃。 上田伊閑・・・800石。八郎右衛門の父。61歳。 上田ナオ・・・シゲとも。伊閑の妻。58歳。 上田チエ・・・八郎右衛門の娘。9歳。 上田ジュン・・・八郎右衛門の妹。30歳。 上田ミネ・・・八郎右衛門の叔母。伊閑の妹。56歳。 |
内藤氏家臣墓 | 古川重兵衛・・・内藤介右衛門家来。明治元年9月17日若松泰雲寺で主家一族と自刃。47歳。 石野八四郎・・・家老内藤介右衛門家来。 明治元年9月17日若松泰雲寺で主家に殉じ自刃。31歳。 阿部重次郎・・・安部とも。家老内藤介右衛門譜代家来。 明治元年9月17日若松泰雲寺で主家に殉じ自刃。30歳。 |
元木吉之助墓 | 6石2人扶持。家老内藤介右衛門家来。 明治元年9月17日若松泰雲寺で自刃。35歳。 |
永井豊太郎墓 | 詳細不詳。旧斗南藩人名録に同姓同名あり。 |
墓誌 | |
内藤得道墓 | 越後の出身。12歳のときに会津材木町の渋川家の養子になる。 その後、善龍寺で修行し、雲水となって修行の旅に出る。そして会津藩軍事方の姪を受け僧籍のまま密偵となる。 戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。そして9月17日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。 得道はまた、兄弟子得英らとともに灰燼の中から内藤家のものたちの遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。 のちに、謹慎を解かれた介右衛門が泰雲を訪れた際に、得道の労をねぎらい無禄の分家として内藤姓を与えたのである。 |
原早太墓 | 360石。白虎寄合一番隊中隊頭。 明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、26日面川で死。37歳。 |
大竹主計墓 | 450石、軍事奉行番頭対席。遊撃隊頭。 明治元年9月5日会津面川(御山とも)で戦死。46歳。 |