善龍寺

奈與竹の碑 昭和3年建立。
戊辰戦争に殉じた名前の判明している233名の婦女子の偉業を留め建立された。
西郷千恵子辞世 なよ竹の 風にまかする 身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ
西郷家、小森家二十一人之墓 明治元年8月23日、西軍の郭内侵入を目前にして全員白装束に身支度をし、辞世を詠み水盃を酌み交わした。
彼女らは国難に際し、戦いの足手まといになること不本意としたのである。
西郷家9人、小森家5人、町田家3人、浅井家2人、西郷家2人の合せて21人の集団自決であった。

西郷家・小森家二十一人
西郷頼母、千恵子墓 西郷頼母・・・名は近悳、幼名は竜太郎、通称頼母。
幼少から学問を好み、側役小姓頭、番頭を経て33歳のとき家督相続して家老就任。松平容保が京都守護職拝命のとき、就任辞退を諌言して解職。
戊辰戦争が急を告げると家老に復帰、白河口の戦いを指揮、敗れて帰城し再度恭順を唱えのち箱館へ移る。
維新後は宮司など神職生活を送る。のち若松に帰る。明治36年4月28日没。74歳。

西郷千恵子・・・上の項参照。
伴百悦墓 萱野右兵衛隊の組頭として越後口を転戦。
戦後、放置されていた会津藩士の遺体の埋葬に奔走。
民生局の扱いに不満をいだいた百悦は、同志の中原成業、一柳訪、井深元治らと謀り監察兼断獄の旧越前藩士久保村文四郎が帰国する機会に越後街道の束松峠に待ち伏せてこれを斬殺してしまった。
百悦はそのまま旧会津藩領飛地であった新津に逃れていたが、明治3年6月22日、新津郊外大安寺村の慶雲庵で村松兵に包囲され自害した。42歳。
赤羽四郎墓 会津戦争時、白虎隊に所属して籠城戦を戦っているが、山下健次郎と同じように「16歳未満」ということで開戦時の編成には入れず、籠城戦に入ってから鶴ヶ城内で再編成された「白虎士中合同隊」に所属していたと思われる。
開城後、謹慎地の猪苗代から山川健次郎・柴茂四郎・高木盛之助・原マ三郎らとともに脱走し、若松の西軍本営に赴いて主君の助命嘆願をした、というエピソードを持つ。
明治5年アメリカに留学し、帰国後、外務権少録書記生としてドイツへ再渡航し、その後はロシア・アメリカへ転勤した。
明治25年に外務大臣秘書官、ドイツ公使館一等書記官となり、同27年には弁理公使に任じられてオランダへ赴任している。
さらに明治32年、特命全権公使に昇進し外務省参与官を兼ね、33年から40年までスペイン公使を務めた。
明治43年12月28日没。55歳。
高木盛之輔墓 戊辰戦争では護衛隊として藩主の側近を務め、滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令として活躍。
西南の役に征討軍別働第二旅団参謀中佐・山川浩隊に属して、熊本城包囲解放戦等に従軍。
のち司法官に転じ、根室・甲府・山形等の地方裁判所検事正を歴任した。
大正8年2月19日没。66歳。
小室金吾左衛門墓 200石。番頭席(若年寄席とも)。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。42歳。
池上氏之墓  
池上友次郎墓 武助伜。諸生佐川隊。
明治元年1月5日淀で戦死。19歳。京都黒谷に墓。
池上貞之助墓 伝蔵伜。別撰佐川隊。
明治元年1月5日淀で戦死。21歳。京都黒谷と悟真寺に墓。
井深数馬、石山虎之助遥拝碑 井深数馬・・・200石、軍事方添役。明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。46歳。

石山虎之助・・・井深数馬伜。石山弥右衛門養子。白虎士中二番日向隊。
明治元年8月23日会津飯盛山で戦死。16歳。

飯盛山石山虎之助墓
北村直衛墓 210石、大目付。遊撃小山田隊頭。
明治元年9月14日若松諏方社で傷、27日青木で死。49歳。
小日山覚次郎、善次郎、友四郎墓 小日山覚次郎・・・詳細不明。

小日山善次郎・・・善左衛門伜。5石5斗2人扶持、独礼。進撃小室隊。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。25歳。

小日山友四郎・・・友次郎とも。善左衛門二男。6石2人扶持。朱雀足軽四番横山隊。
明治元年9月3日会津関山で戦死。18歳。
辰野平太墓 源左衛門弟。萱野右兵衛隊。
明治元年5月13日越後朝日山で戦死。35歳。
辰野小十郎墓 朱雀寄合一番武井隊。
明治元年9月13日若松城三ノ丸で傷、21日死。34歳。
中村重成、重一墓 中村新八・・・10石3人扶持。上田隊。明治元年1月5日鳥羽で戦死。17歳。

どちらが新八か不明。
宮下清之丞墓 孫助祖父。大賄役。
明治元年8月23日若松で戦死。81歳。
両角大蔵墓 大八とも。伝八三男。10石3人扶持、使番。正奇隊小隊頭。
明治元年8月24日会津小田で戦死。33歳。
下平庸三郎墓 英吉叔父。幌役。
明治元年9月15日会津一ノ堰で戦死。44歳。
井上恒之助墓 誠志隊半隊頭。
明治元年9月15日会津一ノ堰で傷、面川(出井中野村とも)で死。42歳。
井上恒之助墓(新) 同上。
鈴木某、新治郎墓 詳細不明。