天寧寺

萱野権兵衛墓 会津藩家老。1500石。文武両道に優れる。剣は一刀流溝口派の達人。
戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。
西郷頼母は行方不明。田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って自刃した。
明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。40歳。
そのとき奥義の絶えるのを恐れ、傍らの竹の箸で井深宅右衛門に伝えた話は有名。

阿弥陀寺萱野長修遥拝碑
鶴ヶ城萱野国老殉節碑
郡長正墓 会津藩家老萱野権兵衛長修の次男。
父長修が藩を代表して戊辰戦争の責任を取り切腹して果てたため、姓を郡と改めた。
会津藩は明治2年陸奥斗南に3万石として再興なり、藩学再建のため翌年藩より選ばれ、同輩7人とともに九州中津藩小笠原家の育徳館に留学中、食事のことについて書いた母への手紙が生徒間の問題となり、藩の名誉のため切腹して果てた。
田中土佐墓 名を玄清という。2000石、家老。玄良の長男。城下本一之丁在住。号大海。京都で活躍。
明治元年8月23日若松五之丁土屋一庵邸で自刃。49歳。
田中玄光墓 田中土佐玄清長男。
近藤勇墓 新撰組局長。
明治3月6日甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼において、谷干城の軍と戦い、江戸から下総の流山に退いたが、4月4日捕らえられた。25日板橋の処刑場にて斬首され、その首は閏4月8日京都三条河原に晒されたが、首は何者かによって盗み去られた。
会津にある近藤の墓は、会津戦争に参加した土方歳三によって建てられたもので、三条河原から盗み去られた近藤の首塚であるという。
戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。容保自身の筆によるらしい。

高国寺近藤勇墓
土方歳三慰霊碑 新撰組副長。
近藤出頭後、助命嘆願の傍ら新撰組を斎藤一に託して会津に向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流。
4月11日に江戸城無血開城が成立すると江戸を脱走し、歳三は秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めた。下館、下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させるが、壬生の戦いに敗走、西軍と再度宇都宮城で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることになり、約3ヶ月の療養生活を送る。
その後全快し母成峠の戦いに参戦するも敗退。仙台を経て蝦夷地に渡る。
蝦夷共和国では陸軍奉行並となり箱館市中取締りや陸海軍裁判局頭取を兼ねた。
明治2年5月11日一本木関門を守備し、馬上で指揮中、銃弾に腹部を貫かれて戦死。35歳。
近藤勇辞世歌碑 孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔
靡他今日復何言 取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣 只将一死報君恩
上田学太輔墓 1000石、家老。
上田新八郎墓 学太輔伜。600石。砲兵頭。
明治元年8月23日会津沓掛で戦死。20歳。
南摩弥三右衛門墓 300石。大砲一番小原隊組頭。
明治元年8月23日若松城埋門で傷、城内で死。
南摩勝子、節、寿、辛墓 南摩勝子・・・弥三右衛門の母。明治元年9月会津勝方村で自害。42歳。

南摩節・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月若松城で戦死。

南摩寿・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月会津勝方村で母、弟と死。8歳。

南摩辛・・・弥三右衛門の弟。明治元年9月会津勝方村で母、兄と死。4歳。


勝方寺町野家・南摩家 殉難の地
間瀬新兵衛墓 岩五郎父。元奉行。
明治元年9月14日若松城で戦死。67歳。
間瀬利直拝石 350石、奏者番上席。朱雀足軽二番隊中隊頭。
明治元年8月29日若松長命寺で戦死。29歳。
相馬孫市墓 直登伜。諸生組頭。
明治元年4月23日宇都宮(壬生とも)城下で戦死。28歳。日光・観音寺に葬。
伊東俊吾墓 左太夫父。隠居組。
明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。73歳。
伊東左太夫墓 名は祐順、寛堂と号す。伊東慎吾祐辰の長男。
藩校日新館で学ぶとともに宗川茂にも師事。家禄150石を継ぎ、儒者見習・用所密事頭取を経て大目付となる。
藩主松平容保が京都守護職に就任したため公用人として京都へ赴く。
戊辰戦争の際は米沢藩等へ使いした。
明治2年喜徳(天山公)の侍講に召し出されて上京したが、翌々年病気のため急逝。
伊東悌次郎墓 左太夫二男。
白虎士中二番日向隊。明治元年8月23日会津飯盛山で自刃。17歳。

飯盛山伊東悌次郎墓
一瀬晴治墓 勘三郎従弟。青龍士中三番木本隊。
明治元年7月24日越後大山(与板とも)で傷、8月16日十二所村で死。37歳。
遠山為善墓 明治元年6月27日白河で戦死。
碑陰に辞世が刻まれている。
木村常之助墓 6石2人扶持。青龍足軽隊。
明治元年9月18日五十里越で戦死。47歳。
野田家供養塔 鳥羽伏見で戦死した野田清次郎の供養塔と思われる。
簗瀬某墓 8月23日。
酒井安平墓 旧藩士。
酒井伊佐美墓 猪苗代の謹慎所で飯沼貞吉が自刃の様子を語ったという。
土屋新平墓 小野権之丞五男。明治40年5月14日没。77歳。