阿弥陀寺
戦死墓 | 戊辰戦争後、城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺体は触れることも許されず放置されたままになっていた。 伴百悦や町野主水らの嘆願が叶い阿弥陀寺と長命寺に限り埋葬許可が下りたのは翌年の2月であった。 1281柱と言われている遺体は、境内に8間四方の穴を掘り、そこに積み重ねられて埋められた。 当初は『殉難之霊』という墓標だったが、新政府より「賊軍に殉難とは何事か」と咎められ、やむなく『戦死墓』となった。 |
黒河内伝五郎、百太郎、百次郎墓 | 黒河内伝五郎・・・11石2人扶持。明治元年8月23日若松の自宅で自刃。65歳。 黒河内百太郎・・・伝五郎伜。大砲士中二番千葉隊。 明治元年8月23日若松天寧寺町口で戦死。43歳。 黒河内百次郎・・・伝五郎次男。朱雀士中四番佐川隊。 明治元年6月越後で傷、8月23日若松自宅で自刃。36歳。 |
鈴木庄蔵墓 | 詳細不詳。 |
藤田五郎(斎藤一)墓 | 元新撰組三番組長。 鳥羽・伏見、甲州勝沼と転戦。近藤勇が流山で投降後、江戸に残った土方歳三と別れ一部の隊士を率いて会津へ向かう。土方が仙台に向かった後も会津に残り戦い続けた。 降伏後は会津藩士と共に越後高田で謹慎。のちに斗南へ赴く。 名を藤田五郎と改め、会津藩士の娘・高木時尾と結婚。 その後東京へ移住し警視官となり、西南戦争では警視官によって結成された別働第三旅団に所属して従軍し、抜刀斬り込みで活躍。 明治24年に警視庁を退職後は東京高等師範学校などに警備員として勤務。 大正4年9月28日、胃潰瘍のため死去。享年72歳。 |
萱野長修遥拝碑 | 会津藩家老1500石、萱野権兵衛の遥拝碑。 戊辰戦争後、新政府より藩主父子を助命するかわりに戦争の首謀者3名を差し出すよう要求された。西郷頼母は行方不明。田中土佐、神保内蔵助は既に自刃していたため4番目の席次にあった萱野が藩の責任を一身に背負って自刃した。 明治2年5月18日飯野藩保科邸内において自刃。40歳。 鶴ヶ城・萱野国老殉節碑 天寧寺・萱野権兵衛墓 |
戊辰戦争五十年記念碑 | 戊辰戦争から50年が経過したのを記念して大正6年に建立された。 |
復禄記念碑 | |
御三階 | かつて鶴ヶ城本丸内にあった建物。火災で焼失した阿弥陀寺仮本堂として明治4年に移築された。 外観は3階だが、内部は2階と3階の間に窓もなく天井の低い「中三階」が存在する四層構造になっている。 城内本丸にあって、物見櫓か庭園の高見台的な使用をされていたのではないかといわれているが、2階へあがる階段がウグイス張りになっていること、この「中三階」に武者を潜ませておくことができること、さらに最上階へあがる梯子が引きあげ式になっていることなどから、重要機密の密議所だったのではないかともいわれている。 鶴ヶ城・御三階台 |