恵倫寺
柴謙助墓 | 280石、太一郎の弟。大砲士中一番日向隊。 明治元年4月6日下野家中村で戦死。25歳。 一乗院・柴謙助墓 |
柴清助墓 | 柴太一郎らの叔父。五郎に家族の自刃を知らせた。 |
柴氏家属之墓 | 以下、明治元年8月23日若松自宅で自刃。 柴ツネ・・・太一郎の祖母。80歳。 柴フワチ・・・太一郎の母。50歳。 柴トク・・・太一郎の妻。20歳。 柴素衣・・・太一郎の妹。土屋敬治の妻。19歳。 柴サツ・・・太一郎の妹。7歳。 |
柴太一郎墓 | 四朗、五郎の長兄。 鳥羽伏見では軍事奉行添役をつとめ、会津戦争では越後方面総督の一瀬要人の軍事奉行添役として北越に出陣し各地にに転戦。9月15日の激戦で負傷した。 戦後斗南に移住して藩庁に出仕したが、食糧購入の資金を横領されたため、その責任をとって禁固刑に服した。 のち下北郡長、大沼郡長、南会津郡長などを歴任した。 大正12年4月28日没。85歳。 |
柴五三郎墓 | 柴太一郎弟。 のちに『辰のまぼろし』を著す。 また酒井峰治の『戊辰戦争実歴談』にもその名が登場する。 |
柴四朗墓 | 富津の会津藩陣屋で生まれる。戊辰戦争に従軍するも出陣当時に体調を崩し、高熱を発してフラフラになりながら入城した。 のちに東京で謹慎生活を送り、赦免後も東京で勉学に励むが、学費の問題から国内を転々とする。 明治10年、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城に見出され、27歳のとき岩崎家の援助を得てアメリカに留学し、ペンシルバニア大学及びパシフィック・ビジネス・カレッジを卒業して明治18年に帰国。 同年、持論である「国権伸長」論を基調とするナショナリズム小説「佳人之奇遇」を東海散士の名で発表して好評を得る。それ以後明治30年まで8編を刊行している。 政治家としては明治25年以降福島県選出の衆議院議員として活躍し、8回当選している。農商務次官、外務省参政官などを歴任し、条約改正反対運動などに尽力した。 大正11年熱海の別荘にて死去。69歳。 |
柴五郎墓 | 戊辰戦争で祖母、母、妹らが自邸において自刃。本人は幼少のため面川の別荘に避難させられていて無事だった。 戦後は斗南に移住し、生と死と紙一重の悲惨な生活を送った。 父から厳しく錬えられた五郎は単身上京して陸軍幼年学校へ入学した。そして士官学校へと進み、薩長閥でかためられた陸軍内部でめきめきと頭角を現し、明治12年陸軍少尉に任官し、明治27、28年の日清戦争では大本営参謀をつとめた。 五郎はその後も累進を重ね明治37、38年の日露戦争では砲兵連隊長、重砲兵旅団長等を歴任してわが国砲兵術の基礎を築き、大正8年、武人としては最高位の陸軍大将に進み、台湾軍司令官、軍事参議官に補せられて従二位勲一等功二級を賜った。 昭和20年8月15日、太平洋戦争敗戦の詔が下るにおよび、密かに遺品を整理、12月13日自決。83歳。 |
諏訪伊助墓 | 1700石。鳥羽伏見の戦いの直前に家老昇進。戊辰戦争では日光口や土湯方面に出陣。 開城後は藩主松平喜徳付で東京有馬藩邸で謹慎。 斗南移住後間もなく会津へ帰り旧士族の生活難打開に奔走。 明治15年帝政党の結社届けを出す。同年会津地方の産業のため道路開削要望書を県会へ提出。 明治17年から明治21年まで北会津郡長。明治32年6月9日没。 |
小川郷左衛門、房次郎、鉱太郎墓 | 小川郷左衛門・・・150石。白虎寄合二番太田隊小隊頭。 明治元年9月14日若松垣口で戦死。44歳。 小川鉱太郎・・・郷左衛門伜。小姓。 明治元年5月19日越後長岡へ使者として出張中、長岡兵とともに戦死。19歳。 小川房次郎・・・10石3人扶持。大砲一番田中隊。 明治元年8月29日若松融通寺町で戦死。17歳。 |
林治郎墓 | 朱雀寄合一番一柳隊。200石。 明治元年5月1日磐城白河で戦死。31歳。 |
桃澤弾右衛門墓 | 詳細不詳。 |
渡部某墓 | 詳細不詳。 |