飯盛山

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安達藤三郎墓 米代一之丁、物頭、400石、小野田助右衛門の四男。母はミサ。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法名は信忠院殿英山見雄居士。
有賀織之助墓 本三之丁、御使番、250石、有賀権左衛門の次男。母はいく子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は秋峰院戦誉義道清居士。
池上新太郎墓 郭外厩町、外様士、100石、池上与兵衛の長男。母はしん。継母たみ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は義勇院忠達日清居士。
石田和助墓 郭外槻木町、御側医、7人扶持、石田龍玄の次男。母はちゑ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法号は秋山義遊居士。
兄の義雄は後に長崎・福島県知事を歴任した日下義雄である。
石山虎之助墓 200石、井深数馬の次男。母はそわ子。
本四之丁、外様士、150石、石山弥右衛門の養嗣子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法名は秀了院殿義覚剣忠居士。

善龍寺井深数馬、石山虎之助遥拝碑
伊東悌次郎墓 米代四之丁、藩儒、130石、伊東左太夫の次男。母はすみ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は仁進院忠節劒義居士。なお飯盛山の悌次郎の墓は17歳になっている。

天寧寺伊東悌次郎墓
伊藤俊彦墓 郭外川原町、5人扶持、新番組士、伊藤新作の長男。生母はりよ子。継母孝子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は浄忠院心誉義善居士。なお飯盛山の俊彦の墓は17歳になっている。
井深茂太郎墓 本三之丁、300石、奏者番、井深守之進の長男。母はきよ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法号は深明院殿忠道義人居士。

大窪山墓地井深重應墓
篠田儀三郎墓 米代二之丁、200石、御供番、篠田兵庫の次男。母はしん子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法号は賢忠軍誉英清居士。
鈴木源吉墓 下長丁、120石、藩医、鈴木玄甫の次男。母はさだ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法名は顕忠院達誉義勇居士。
津川喜代美墓 本四之丁、100石、高橋誠八の三男。生母はえつ子。
米代二之丁、外様士、150石、津川瀬兵衛の養嗣子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は清進院良誉英忠居士。
津田捨蔵墓 江戸常勤新番組士、13石3人扶持、津田範三の次男。母はすぐ子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法号は清進院勇猛義忠清居士。
永瀬雄次墓 花畑、御祐筆、18石3人扶持、永瀬丈之助の次男。母はくら子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は功勲院忠誉義道居士。
西川勝太郎墓 本二之丁、物頭、300石、西川半之丞の長男。母はせき子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。霊号は節顕霊神。
野村駒四郎墓 本二之丁、御供番、130石、野村清八の三男。母はみね子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法名は義詮孝忠居士。
林八十治墓 郭外川原町三番丁、外様士、10石3人扶持、林忠蔵の長男。母はみよ。継母とき子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は義光院剣誉忠勇清居士。
間瀬源七郎墓 本二之丁、御用人奉行、350石、間瀬新兵衛の次男。母はまつ。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法号は勇猛院忠誉義進居士。
簗瀬勝三郎墓 本二之丁、物頭、350石、簗瀬源吾の三男。母はとく子。継母みを子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年17歳。法名は忠壮剣光居士。
簗瀬武治墓 本三之丁、御供番、150石、簗瀬久人の次男。母は八重子。
明治元年8月23日飯盛山にて自刃。
行年16歳。法名は武勇院殿義戦居士。
飯沼貞雄墓 飯沼時衛の次男。旧名貞吉。戊辰戦争では生年を偽って白虎士中二番隊に参加。
飯盛山では咽喉を突いたが急所を外してしまい人事不省のまま死にきれずにいた。その後、戦死者の所持品を狙う泥棒に飯盛山の南に並ぶ八ヶ森の南側山中に連れて行かれ刀を盗られたうえに動けない体を遺棄されてしまう。その頃、渡部佐平という百姓が、飯盛山の南に隣した袋山の岩屋に戦乱を避けていたが、薪木を取りに出てきて倒れている貞吉を発見。佐平を頼ってきていた足軽・印出新蔵の妻はつに連れられて塩川村の近江屋という宿屋までたどり着いた。
ここではつは、三本住庵という町医者に傷口を縫ってもらい薬をつけてやった。その後、落城までの期間、入田付村山中の不動堂に隠れ住んだ。
その後、貞吉は他の藩士達と共に謹慎。赦免後、名を貞雄と改めて静岡の林三郎塾に入り、明治5年に工部省の技術教場に入所して電信建築技師となった。
明治27、28年の日清戦争には歩兵大尉として出征、帰還後は再び逓信省に戻り、最後には仙台逓信管理局の初代公務部長を勤め、昭和6年2月12日仙台にて没。享年77歳。
墓は仙台の輪王寺にあるが、昭和33年、戊辰90年祭を執行するにあたり、他の隊士らの眠る飯盛山に彼の毛髪と歯を移して墓碑を建て、その霊を慰めた。
会津藩殉難烈婦碑  
吉田伊惣治篤志碑 本陣のあった滝沢村の肝煎。
白虎隊士の遺体の惨状を見かねて、その遺体を密かに埋葬した(実際には伊惣治は後方部隊の使役に駆り出されていて、妻の左喜が埋葬したのが事実のようである)。
左喜は人夫を何人か雇い、夜間数回にわたって白虎隊士の遺体を2キロ離れた実家の菩提寺である妙国寺に埋葬した。遺体は4体といわれているが、正確なところはわかっていない。
また飯盛山の墓地にも埋葬されたというが、その数も明らかではない。
これが西軍黒羽藩の知るところとなり、軍監中村半次郎の命により、左喜に代わり夫の伊惣治が捕えられ投獄された。
しかし、この行為は会津藩士の命ではなく、村民の気持ちから出たこととわかって、伊惣治は釈放されたが、埋葬された白虎隊士の遺体は西軍の手で再び掘りかえされ、野に投棄された。
吉田伊惣治墓  
郡上藩凌霜隊之碑 郡上藩は西軍の命に従って、藩士300名を岐阜県内にあった旧幕府領警備に出張させた。
しかし藩は優秀な藩士45名を集合させ「無届脱藩」という形で旧幕府軍に味方して出兵させた。この部隊が凌霜隊である。
これは旧幕府勢力が復活した場合に備えての手段であったとする説、最近の研究では江戸家老と国家老の権力争いに伴う情勢のなか、旧幕府寄りの江戸詰め家臣達を中心とした動きであったという見方もでてきている。
江戸家老の長男で、17歳の朝比奈茂吉を隊長とする凌霜隊は日光、宇都宮、会津と転戦し鶴ヶ城の籠城戦にも活躍した。
45名の隊員中、8名の戦死者と2名の行方不明者を出した。

凌霜隊士名簿
白虎隊自刃之跡 白虎隊自刃の地に建つ。
白虎隊殉難士各霊塔 同上。
水戸藩諸生党鎮魂碑 元治元年の天狗党挙兵前に結成。
中心人物は佐藤図書、朝比奈弥太郎、市川三左衛門でいずれも家老格の家柄。
彼らは城代家老・鈴木石見守を中心に、天狗党にたいする一大勢力を形成した。
戊辰戦争では市川三左衛門を将として約500名で脱藩し西軍に抗戦、長岡、会津と転戦した。
若松落城後は意を決して水戸へ再び侵入し、水戸弘道館を占拠して天狗党と激しく戦ったが戦ったが、諸生党は壊滅し、三左衛門は江戸へ逃れたが、明治2年2月26日に捕縛され、身柄はただちに水戸へ護送され逆磔となった。
白虎隊引き揚げの洞門 この洞門をくぐり、飯盛山に辿り着いた白虎隊士たちは自刃の地へと進んでいった。