長福寺
佐川官兵衛墓 | 文久2年、藩主容保が京都守護職となるや、藩士の子弟を選んで別撰隊が組織されるや隊長を命ぜられ、京都市中の警護にあたり、鬼佐川の異名をとった。 鳥羽・伏見の戦いでは右眼を負傷しながら奮戦した。 若松に戻ると、越後口防禦の任につき、精鋭の朱雀隊四番隊長として越後に向かった。 その後、長岡が落ち、白河口も破れ藩主に召還され、若松に戻り、若年寄から家老に進み、若松城外の防衛に専念した。 落城後、幽閉されたが特赦により若松に閉居するも、警視局の要請を受け旧藩士を率いて巡査隊に入り、一等警部に任じ西南の役に参加。 明治10年3月18日、阿蘇山中の黒川村で戦死。47歳。 墓は大分県松栄山護国神社境内警視局墓地。 鶴ヶ城・佐川官兵衛顕彰碑 |
佐川官兵衛妻墓 | 多賀谷勝右衛門の娘。明治3年6月20日没。 |
瓜生岩子刀自裁縫教授所跡 | 小田付の幼学校後が手狭になったため、明治12年この寺を借り受け貧困者を住まわせ仕事を世話し、また「裁縫教授所」を開設して近隣の農家の娘に、裁縫や礼儀作法を教え、僧侶の法話などを聞かせ教育した。 明治20年福島に出るまでの8年間、村の人々の協力を得て事業を進めた。 長楽寺・瓜生岩子之像 北町公園・瓜生岩子刀自生誕之地 示現寺・瓜生岩子墓 |