戸ノ口原周辺

十六橋 猪苗代湖から流れる日橋川に架けられた石橋。
真っ先に猪苗代に到達した川村与十郎率いる薩摩藩四番隊は、休止しようとする部下を叱咤し、再び進撃を命じた。それは少しでも早く戸ノ口十六橋に到達し、会津兵が橋を破壊する前に確保する必要があったためである。
川村隊が十六橋に到達すると、会津兵は既に十六橋の破壊に着手していたので、彼らはこれに一斉に銃火を浴びせ猛攻を仕掛けた。
このとき、別府晋助が激流に身を投じ、他の薩摩兵もこれに励まされて先を争って徒渉してきたので、午後3時頃には会津兵も遂に十六橋を放棄して撤退した。
これにより、会津藩は十六橋の南岸、戸ノ口原一帯に敢死隊、奇勝隊700余名を急遽派遣し防衛線を張ると同時に、藩主容保も滝沢村へ本陣を進め、この時、護衛として白虎士中一番隊と二番隊の80名であった。
だが、戸ノ口原の戦況は危急で、二番隊の少年たちにも戸ノ口原への出動命令が下された。
十六橋の石材 現在は白虎隊記念館前にある。
白虎隊奮戦の地 白虎隊士中二番隊は敢死隊の右に連なって西軍に対峙した。
砲声は夜陰に及び、戦闘はますますたけなわとなった。
東軍の有する武器は槍、火縄銃のみで、白虎隊のみがヤーゲル銃を有していたが、その威力は西軍の有する銃とは比べ物にならなかった。
これに反し西軍は益々増強され、しかも戦線は北は日橋川の左岸より、南は赤井村方面にまで及んでいた。
時間がたつ程に東軍は苦境に陥り、死傷者が相次ぎ抵抗しつつ退却のやむなきに至った。
戊辰戦役九十八士供養塔 滝沢峠から戸ノ口原にかけての両軍戦死者98人を祀る供養塔。
戊辰戦死者之墓 戸ノ口原で戦死した会津藩士の墓。
小沢新十郎墓 6石5斗2人扶持。敢死隊差図役。
明治元年8月23日会津戸ノ口原で戦死。44歳。
小池繁次郎墓 藤之進父。500石。遊撃軍寄合組頭。
明治元年8月23日会津笹山で戦死。46歳。
安藤物集馬墓 300石。遊撃寄合組小池隊組頭。
明治元年8月23日会津笹山で戦死。44歳。
鈴木三郎墓 7石2人扶持。朱雀寄合一番一柳隊。
明治元年8月23日若松城下で戦死。29歳。

長命寺鈴木三郎墓
村松常盤墓 200石。猪苗代隊。
明治元年8月23日会津戸ノ口原で戦死。42歳。
戦死拾六人之墓 会津藩士16人の合葬墓。
戦死廿人之墓 会津藩士20人の合葬墓。
戦死四人墓 会津藩士4人の合葬墓。
戦死一人墓 会津藩士1人の墓。
戦死十六人墓 強清水にある会津藩士16人の合葬墓。
戦死六人墓 強清水にある会津藩士6人の合葬墓。