祇園寺
水戸戊辰殉難慰霊碑 | 水戸藩の保守・門閥派である諸生党の慰霊碑。戊辰戦争では会津・越後を転戦した。 明治元年9月22日に会津藩が降伏すると、諸生党は長岡藩兵や回天隊などと合流して、会津藩領を脱し、水戸城を目指す。 9月27日、片府田で大田原藩兵・彦根藩兵などと交戦し6名の戦死者を出し退く。更に佐良土にて黒羽藩兵と交戦し11名が戦死した。 9月29日に水戸城下に到着するも、水戸城の守りは堅く三の丸にあった藩校弘道館を占拠して立て籠もる。これに対して天狗党軍は10月1日に攻撃を開始。双方約90名の戦死者を出し、翌2日夜に退却、玉造、潮来を経て10月4日に銚子において、小見川藩兵と高崎藩兵の攻撃を受け敗走、10月6日、八日市場に逃れたが天狗党軍の追撃を受け、松山村にて朝比奈弥太郎以下、多数の戦死者を出して壊滅した。 この碑は昭和9年(1934)に、天狗党軍として諸生党と戦った貴族院議員・室田義文翁の後援によって建てられた。 飯盛山・水戸藩諸生党鎮魂碑 |
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市川三左衛門墓 | 水戸藩。 三左衛門弘教の子。500石。要職歴任後家老。 元治元年(1864)以来諸生党の首領として筑波勢を弾圧。交戦。 明治元年10月敗走後、潜伏。 明治2年4月東京で捕えられ、同3日水戸城外長岡原で逆磔の極刑に処せられた。54歳。 裏面には、市川三左衛門弘美、配 岸子、秀五郎弘称、主計弘継、安三郎、大正6年6月合葬、弘勝建立 と刻まれている。 |
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朝比奈弥太郎墓 | 水戸藩。 1300石、家老。 市川三左衛門らと諸生党を指揮、元治元年(1864)筑波党を征討した。 明治元年10月6日下総八日市場で戦死。 |
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