愛宕神社
窪田伴次、重太供養碑 | 窪田伴次・・・11石2人扶持、独礼。 元治元年7月19日の禁門の変において、会津藩は三面より攻撃を受けて忽ち苦戦に陥り、蛤御門を放棄して内裏の唐門の守備に移ったが、長州兵はさらに強攻してきた。このとき間髪を入れず飛び出した伴次は「窪田伴次一番槍」と叫び大身の槍を振って敵の真っ只中に飛び込み、忽ち2、3人を倒したが、敵弾に当たって壮烈な戦死をとげた。39歳。京都黒谷に墓。 窪田重太・・・伴次長男。白虎士中一番隊。 戦後は猪苗代に謹慎、さらに東京に護送された。許されて斗南に移住、その後東京に出て警視庁巡査となる。 明治10年西南の役勃発するや三等巡査で出征、別働第三旅団第四大隊一中隊二小隊所属として5月18日熊本県中尾山の戦いで銃弾に倒れた。 |
松平容保公之像 | 院内御廟・松平容保墓 |