院内御廟

松平容保墓 幕末から明治・戊辰戦争の頃にかけての、悲運の会津藩主。
岐阜県美濃高須藩3万石松平義建(よしたつ)の 6男で、12歳の時に会津藩主松平容敬の養子となった。18歳で藩主となり、28歳の時に京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の孝明天皇の厚い信頼を得る。
江戸帰還を命ぜられた浪士組のうち京都残留を希望する近藤勇らを御預とし、のちの新撰組である「壬生浪士組」を誕生させる。
その後倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入する。鳥羽・伏見の戦後その立場は暗転、忠誠を貫いてきた将軍慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、朝廷からも逆賊の汚名を着せられ、会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移された。
明治5年に謹慎を解かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。以後の生涯は、宮司職のかたわら、歌道にのみ没頭した。
明治26年12月5日没。享年58歳。
晩年、いくら問われても、幕末・維新については一言も語らなかったと言われる。
松平家之墓 松平喜徳・・・10代。水戸藩主徳川斉昭19男。容保養子。明治24年6月3日没。

松平容大・・・11代。容保長男。斗南藩知事。明治43年6月11日没。41歳。

松平鞆子・・・容大夫人。昭和16年7月28日没。69歳。

松平保男・・・12代。容保五男。昭和19年1月19日没。67歳。

松平進子・・・保男夫人。昭和43年8月6日没。79歳。

他10人。
忠誠霊神碑 容保の諡号忠誠霊神は、京都守護職時代に孝明天皇から賜った歌の詞書き「たやすからざる世にもののふの忠誠のこころをよろこびて」からとった。
堀半右衛門墓 1000石、元番頭。
明治元年8月24日(23日とも)会津院内御廟所で自刃。51歳。