融通寺

町野主水墓 藩主容保が京都守護職のとき、主水もこれに随行して京都にあったが、たまたま桑名藩士と口論になり相手の2人を斬った。主水は入牢させられたが、蛤御門の変が起きるや牢を破って一番槍の勇名を挙げたものの、後ふたたび津川に流された。
戊辰戦争では越後小出島の奉行に任命された。
会津危急となり、越後口総指揮官佐川官兵衛が若松に呼び戻されるや、主水は代わってこの方面軍の指揮官となった。
戦後は戦死者の埋葬についての取り締まりを命ぜられたが、この間、白虎隊士の遺体を埋葬した吉田伊惣治の投獄問題や遺体の丁重な取り扱いなどについて同志の伴百悦らと相計らって西軍参謀への請願交渉を進めた。その後は白虎隊士の墓所の選定や、慰霊行事の開催にも献身した。
明治15年には帝政党の結成に参加。諏訪伊助や辰野宗次ら5名の者と相計らい若松清水屋旅館に宿泊していた会津自由党幹部の宇田成一や小島忠八らを襲撃した。
大正12年6月9日没。享年87歳。
町野家家族墓 以下、明治元年8月25日会津勝方で自害。

町野ヤヨ・・・主水の妻。24歳
町野ナオ・・・主水の娘。7歳。
町野源太郎・・・主水の伜。3歳。
町野キト・・・主水の母。47歳。
町野フサ・・・主水の姉。31歳。

勝方寺町野家・南摩家 家族殉難の地
町野久吉首塚 主水弟。
三国山の三坂大般若塚付近に配備された会津勢は僅かに150名足らずであった。
この状況下にあって智将主水は小出島まで無血撤退をし、長岡決戦の計画を打ち出した。
しかし弟の久吉少年は会津武士に退却は無いと強く反対、閏4月24日、単身家宝の名槍を揮って敵陣に突っ込み敵弾数丸を受けて戦死した。17歳。