正法寺

荒川勝茂墓 130石で北原家家臣団20人中の筆頭。
明治2年11月本人の書いた身上書によれば、戊辰戦争時は進撃隊席御供番。
敗戦後、塩川に謹慎し、明治2年2月には越後高田藩に幽閉される。
斗南藩に移り藩再興に尽くす。その間の「明治日誌」全4巻は貴重な資料。
廃藩後、会津に戻り、教育者としての功績が大きい。
明治42年2月5日没。75歳。
佐原盛純墓 会津藩士ではなく、若松馬場町生まれ。旧姓金上。
18歳で江戸に出て、添川完平、杉原心斎らに学ぶ。
文久3年外国奉行池田筑後守の師となってフランスに渡り、パリの往復記録「航海日録」を書く。
維新前後は他藩に仕えたが、明治5年足柄裁判所勤務。
明治8年若松へ帰り、塾を開いて漢学を教えた。後に私学日新館教授。
明治17年「白虎隊」の漢詩と剣舞を初めて墓前に奉納。
明治41年12月4日、宇都宮の親族の家にて没。74歳。