興徳寺

秋月登之助墓 田島代官江上又八嫡男。太郎と称した。勇志に富み、将の器であった。
幕末、江戸にあって広く幕府や他藩の要人らと親交を結び、会津藩の名誉回復につとめたが事ならず、幕軍の七連隊に転入した。大鳥圭介らとはかって江戸城に立て籠り義兵を挙げて西軍を江戸から追い払おうと計画したが、これも果たせなかった。
やがて大鳥圭介が幕軍20余名を率いて会津へ向け北上することになり、登之助は推されて伝習第一大隊長となり新撰組副長土方歳三は彼の下にあって参謀役を務めた。
宇都宮城の攻防戦において大いに活躍した後、藤原口から田島に入り、若松城に入った。
8月22日、母成峠破れ西軍が若松の城下に殺到した際、登之助は二ノ丸にあって馬上から「君恩に報ずるのはこの時である。婦人は内へ、男は外へ出て戦うべし」と絶叫しながら友軍を叱咤激励する姿を間瀬みつに目撃されているが、その後の消息は知られていない。
斎藤新吉墓 10石2人扶持、与力。
明治元年6月23日越後島崎で戦死。25歳。
外島敬徳、良蔵墓 外島敬徳・・・明治元年11月9日。詳細不詳。

外島良蔵・・・泰助伜。幌役、物頭席。
明治元年8月29日若松長命寺裏で戦死。27歳。
池上四郎墓 池上武輔の四男。
籠城戦では仲間達と共に唐人凧を揚げて味方の士気を鼓舞した。
維新後は斗南へ移住、後に上京して柳谷卯三郎の書生となり、苦しい生活の中で勉学に励んだ。
大正2年に推されて大阪市長に就任。以来3期10年間に渡り、財政再建を進めながら都市計画事業や水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮に全力を傾注しつつ、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や、病院の整備など、社会福祉の充実にも力を注いだ。
昭和4年4月4日没。73歳。