住吉神社

住吉川原古戦場跡 出撃隊総督の佐川官兵衛は、8月29日の長命寺攻撃が失敗に終わるや、大部の兵を城に帰還させ、自分は手兵を連れて米代一之丁の小笠原邸に本営を置き、各自の部署を定めて次の機会を待った。
郊外の材木町には田中左内の率いる砲兵隊を出して警戒していたが、日光口の西軍が本郷より若松に侵攻しようとしていることを知り、これへの奇襲を企て、9月5日、飯田大次郎隊及び水戸脱走の朝比奈弥太郎・市川三左衛門・筧忠大夫らの兵を合わせて約400を得てこれを柳原に伏せ、官兵衛自らは手兵400及び、大沼城之助・田中左内の率いる両砲兵隊と共に、材木町住吉神社及び秀長寺付近の林中、あるいは民家に伏して西軍の到来を待った。
4日夜本郷に宿営した西軍は、翌5日早朝、大川を渡って飯寺・材木町に集結した。軍監中村半次郎は先に城下に進攻していた白河口西軍主力と連絡をとるため自ら薩摩の一隊を率いて柳原を迂回、越後街道から城下に入って西軍本部に行き連絡をとった。正午頃であったというが、この頃秀長寺の砲兵は飯寺・材木町の西軍に向かって俄然砲撃を開始した。彼我の間は僅かに4、50間。会津の諸隊は一斉に起って攻撃に転じた。軍監不在の西軍は休憩中で、戦闘に対する備えは全くしていなかったから驚愕おくあたわず、全軍騒然となって右往左往するのみであった。
時に関山方面に向かっていた進撃隊は、唐木辰太郎の朱雀隊と合して高田にあったが、西軍の兵(薩摩、広島、佐賀、宇都宮、中津、人吉、黒羽、館林、大田原、今治)が若松城下に向かうと聞いてこれを追っていたので、この砲声を聞いて、西軍の背後からこれを衝いた。ここにおいて西軍の狼狽は極みに達した。だが時がたつにつれて兵力の優勢な西軍は威力を回復してきたので、会津兵は攻撃を止め、西軍の遺棄した銃砲、弾薬、食糧、毛布、金円等多大の鹵獲品を得て、日没前に城中に引揚げた。
この日の戦闘で西軍の損害は、薩摩兵が戦死1、広島兵が戦死1・負傷8、佐賀兵が戦死1・負傷4、中津兵が戦死1・負傷3、宇都宮兵が負傷3、館林兵が戦死4・負傷4、人吉兵が負傷3、黒羽兵が戦死4・負傷6、大田原兵が負傷2を出したのに対し、会津兵は戦死1・負傷5のみで、城下における戦闘中唯一の勝利であった。
この戦闘で西軍は輜重用の人馬・夫卒・小荷駄など多くを失ったので、各藩ともにその後の補給に大きな困難を来たすことになった。
しかし、翌6日には西軍により、飯寺において会津藩の食糧の輸送路を断たれ、これによって高田方面からの物資の搬入が不可能になった。
会津藩戦勝地跡