照国寺

河原田包彦追悼碑 会津藩御蔵入奉行。160石・河原田治部信盛の長男。
戊辰戦争の際父は君命により蝦夷地にあり、包彦は16歳であったが、旧領主河原田家の子孫ということで、父に代わって檜枝岐口沼山峠の守備についた。
5月11日、檜枝岐口防備隊の探索の者が沼田より戸倉にかけて6藩・1200名の大軍が詰めかけてきたと報告。檜枝岐口では色めき立ち、田島陣屋に報告したが、包彦は翌日、旧家臣に宛てて結集を呼びかける檄文を発した。
戸倉の西軍を襲撃して手柄をたて、また父信盛が蝦夷地より急遽帰国、駒止の嶮を越えて西軍に当たろうとしたとき、包彦もこれに呼応して西軍を挟撃、敵を数十里の外に退けるなどの軍功を挙げた。
戦後は越後高田に謹慎したが、病のため明治2年8月10日没。17歳。
明治24年8月、包彦の23回忌法要にあたり、有志らが追惜之碑建立を計画。明治27年に竣工され、9月10日慰霊祭が執行された。