真龍寺
河井善順墓 | 僧侶。若松で出生、長兄の養子となり真龍寺の第10世住職となる。 名は順といい、智海とも称する。越後に遊学し、のち京都の本山西本願寺の学寮に入る。 文久2年、松平容保が京都守護職になると、会津藩士たちと交流。 禁門の変で寺が長州兵を匿い、会津藩兵が寺を焼こうとしたとき、善順が間に入って中止させた。 戊辰戦後、長州藩士奥平謙輔の手紙を猪苗代の謹慎所に居た秋月悌次郎に届け、これが契機となって新政府要人と会津藩首脳部とのパイプが構築された。 猪苗代に謹慎していた会津藩士たちが東京へ護送されると、善順もこれを追って上京し、一時還俗して僧籍を離れ、新政府の要人等を歴訪して会津藩主の助命と藩の救解に尽力した。 明治26年8月20日没。58歳。 |
柿沢勇記墓 | 大鳥圭介軍に属し参謀。変名森三之丞。 明治元年4月23日下野壬生(宇都宮とも)で傷、27日に日光で死。36歳。 観音寺・柿沢勇記墓 |
福原勝吾墓 | 10石7人扶持。 明治元年5月1日磐城白河で戦死。34歳。 |
宇南山壮平墓 | 6石5斗2人扶持、独礼。進撃小室隊。 明治元年8月29日若松長命寺で戦死。38歳。 |
阿部某墓 | 墓碑の損傷が激しく詳細不詳。 微かに阿部姓と、慶応4年○月12日と読み取れる。 |
鈴木好之助墓 | 詳細不明。慶応4年5月10日 14歳とある。 |