三斗小屋

三斗小屋宿跡 戊辰戦争時、三斗小屋宿には会津藩兵が駐屯していた。
総督府は白河口にいた黒羽・館林両藩兵を二手に分けて転進させた。
一隊は北温泉から那須岳を廻って、もう一隊ははるか南方の池田から板室を経て三斗小屋に進めた。
8月23日の三斗小屋宿での戦闘では、双方合わせて20数名の戦死者を出しただけでなく、宿の制覇権が移動する中で三斗小屋の大黒屋文五郎は黒羽藩兵に、百村名主月井源右衛門は東軍に捕らえられ虐殺された。いずれも敵への協力が理由とされた。
この結果、会津軍は藩境に後退したため、26日には大峠を越えた中峠で交戦があった。会津軍は激しく反撃をしたが、損害も大きく国境を越え野際新田へと退却していった。
黒羽・館林両藩兵には会津若松総攻撃の指示が出たため、残留部隊を残して会津南口に向かったが、9月10日残留部隊によって三斗小屋宿は全戸焼き打された。
戊辰戦死若干墓 三斗小屋宿は黒羽藩領であったにも関わらず、同藩兵による略奪と民間人虐殺は恨みの的となった。
「黒羽藩士等ノ蒙昧野蛮ノ惨酷ナル行動ニ驚カザルモノアランヤ(中略)野蛮的行為ノ仕跡見ルモ聞クモ実ニ痛恨極リナシ」(田代音吉『三斗小屋誌』)と永く語り継がれた。
宿の屋号に「会津屋」「三春屋」が見られるなど、会津との関係が深いと思われていたからだろう。
それに対して宿民は、明治13年「戊辰戦死若干墓」を建てた。2名の世話人の名が刻まれ、裏面には「戊辰戦死者十三年忌供養」とある。
会津藩兵10数名の墓である。