満福寺

日向内記墓 700石日向三郎右衛門長男。
朱雀士中二番隊長となり、砲兵隊長の山川大蔵が若年寄に昇進したので後任の砲兵隊長として日光口に赴いた。4月18日、藩主護衛の任にあった白虎士中二番隊頭に任命された。
明治元年年8月22日、白虎士中二番隊を率いて戸ノ口原に出陣。しかし食糧の携帯がなかったので、暗夜食糧の調達のため隊を離れてその間に局面は急転、白虎隊士自刃の悲劇がおきた。
籠城戦に移った8月27日頃、白虎士中二番隊の生存者を中核として白虎士中合同隊が編成され、その隊長となった。。また援軍の凌霜隊もその指揮下におかれ、西出丸の防衛に当たった。
内記が、飯盛山での自刃を知ったのは開城後であった。
戦後は斗南に移住したが、明治4年に会津に戻り、喜多方町に寄留して雑業に従事した。
明治18年11月14日没。
松崎喜八墓 詳細不詳。慶応4年6月。
村川源之助墓 長州軍に属する他藩人とみられる。十津川郷士か。
明治元年8月岩代喜多方で戦死。18歳。