建福寺
河井継之助埋骨遺跡 | 長岡藩家老。名は秋義、蒼龍窟と号した。 江戸へ上り、斎藤拙堂、佐久間象山らの教えを受けた。蕃所調書の頭取となり、西洋事情にも通じていた。 ペリー来航後、藩主牧野忠雅に藩の進路を進言したが容れられず長岡に帰り、安政6年諸国を巡り、備中松山藩山田方谷を訪ねて藩政の実学を学んだ。さらに長崎を回って帰国。 元治元年藩主忠恭に才を認められ、郡奉行・町奉行・年寄役と進み、家老に任ぜられた。 長岡の戦いで負傷し部下千数百人とともに八十里越から会津に逃れた。 途中、傷が悪化して明治元年8月16日、只見町塩沢の医師矢沢家において死亡した。享年42歳。 墓は長岡・栄涼寺と、塩沢・医王寺。 医王寺・河井継之助墓 |
神保内蔵助墓 | 内蔵助経周の長男。修理の父。1800石。若年寄から家老。 明治元年8月23日若松五之丁土屋一庵邸で自刃。53歳。 |
神保巌之助墓 | 内蔵助三男。 明治3年に豊後豊津藩(小倉藩)に郡長正らと藩費留学。 明治4年5月1日、郡長正が自刃したことにより帰藩。山川大蔵や永岡久茂等から「なぜ一緒に腹を切ってこなかったのか」と叱責された。 |
生駒五兵衛墓 | 初太郎父。800石、番頭。 慶応3年12月10日京都御所守衛隊長の任を土佐藩に引きつぎ大坂へ退却。 明治元年9月15日若松城二ノ丸で戦死。57歳。 |
小笠原主膳墓 | 甚三郎養子。200石。朱雀足軽二番隊小隊長。 明治元年7月29日岩代二本松で戦死。34歳。 |
矢島村右衛門墓 | 又助父。100石。上田隊。 明治元年8月23日若松甲賀町口で戦死。49歳。 |
梶原悌蔵、豊記墓 | 梶原悌蔵・・・100石、幌役。進撃小室隊。 明治元年8月29日若松長命寺で戦死。55歳。 梶原豊記・・・悌蔵伜。物頭席。進撃小室隊世話役。 明治元年8月29日若松長命寺で傷、9月5日城内で死。25歳。 |
佐藤伴之丞墓 | 詳細不詳。 |
佐藤通敏墓 | 詳細不詳。 |
藤沢正啓墓 | 通称忠八郎。藤沢内蔵丞長男。 白井大砲隊員として鳥羽・伏見に戦い、江戸でフランス式陸軍の訓練を受けたのち、日光口、白河口の防戦にも従軍。 若松城入城ののち長命寺の戦い、さらに高田・南会津にも出陣。 維新後は各地の警察署長・警視庁典獄などを務める。また松平家の家政顧問をつとめた。 『会津藩大砲隊戊辰戦記』を残す。 昭和9年3月19日没。83歳。 |
藤沢啓治墓 | 白虎士中二番隊の生存隊士。 |