伊佐須美神社

伊佐須美神社 会津藩の本営が置かれていたが、西軍の攻撃に佐川官兵衛はじめ会津藩兵は大内への退却をはじめる。
雨屋の戦闘後に福永に転陣していた部隊も大内に向かい、ついに会津平野から会津藩兵の姿は消えた。
武井柯亭墓 旧会津藩士。若松に生まれ、通称万太郎のち官平、また五峰とも号す。
嘉永6年房州警備、安政4年から江戸勤番、文久2年会津に帰る。この年、藩主松平容保が京都守護職となるや、主君に従い京都に赴き、長州藩士や諸藩の名士と交わる。
戊辰戦争で各地に戦い功あり。琴を愛し柯亭琴士という。書にも長じた。
子の庸が明治7年伊佐須美神社宮司となり高田村に移る。
明治28年5月23日没。73歳。
野田進墓 一般徴募兵で編成された「会義隊」隊頭。
明治元年8月25日、内藤介右衛門率いる会津藩正規軍約1000人を無事に入城させるため、坂平四郎の二番新隊とともに敵を陽動する囮部隊となる。
野田が指揮する徴募兵は死をも恐れずに激戦を展開し、内藤軍団入城作戦を成功させた。
容保は野田・坂隊の軍功を多とし、隊士をすべて士中に格上げしたという。
戦後は斗南へ移住。会津へ帰り、南会津郡書記、会津高田村田川村組合村村長をつとめ、明治25年から伊佐須美神社主典を拝命して禰宜に任じられた。
機密御用藩士から会義隊長として野に下るまで『浮世廻夢』と題して書き残している。
没年月日不明。