供中口古戦場
三浦義彰戦死之處 | 明治元年7月29日の戦闘で三浦権太夫義彰が自刃した。 はじめ農兵隊を率いて杉沢村に出陣、のち後退して供中口を防備することになる。 出陣に際して義彰は両親に対して「天皇に対抗する意志は全くないが、藩命に反抗することもできない。一死をもって双方に臣節を全うする覚悟である」と告げ出陣する。 出陣姿は烏帽子に直垂、また鏃を外した矢で西軍に応戦した。 勝敗の帰結は早く、義彰は農兵を退却させたのち自刃した。享年32歳。 辞世は「あす散るも 色は変わりじ 山桜」 観世寺・三浦権太夫墓 |