英巌寺跡
戸田忠恕墓 | 宇都宮藩第6代藩主。 弘化4年(1847)5月23日、第4代藩主・戸田忠温の六男として生まれる。 安政3年(1856)兄・忠明の死で後を継ぎ従五位下越前守に任官した。 忠恕は尊王の志に篤く、元治元年(1864)、水戸天狗党の乱が起きた折、諸藩皆これにあたるべきところを、出兵遅延はおろか、藩内に藩主一門の戸田次郎をはじめとする宇都宮天狗なる天狗党同調勢力を抱えており、宇都宮藩は幕府の嫌疑を受けるに至った。これにより2万7000石を減じられ5万石となり、忠恕は隠居謹慎を命ぜられ養嗣子・戸田忠友に藩主の座を譲り、さらに陸奥国棚倉藩に転封されることとなった。 戊辰戦争の折は新政府軍につくも幕府軍により攻められ落城したが、宇都宮藩は宇都宮城を再び奪回。忠恕は朝廷より召し出しを蒙るが病にて果たせず5月28日死去。享年22歳。 戒名は霊光院殿神岳忠烈大居士。没後、従三位を贈位された。 宇都宮城跡・贈従三位戸田忠恕之碑 |
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戸田忠友墓 | 宇都宮藩第7代藩主。 弘化4年(1847)8月22日、分家の7000石の旗本である戸田忠偲の長男として生まれる。 文久2年(1862)に第14代将軍・徳川家茂の小姓となり、従五位下に叙位し、元治元年(1864)に安房守に任官した。 しかし本家の第6代藩主・忠恕が天狗党の乱鎮圧失敗などにより、幕命により強制隠居・謹慎を命じられたため、本家の家督を継いで第7代藩主となった。 戊辰戦争では佐幕派として徳川慶喜の助命嘆願を行うべく2月に上洛しようとしたが、道中の大津で抑留された。6月8日に新政府から隠居命令を出されて謹慎する。新政府は佐幕派の忠友に代わる藩主を擁立しようとしたが、藩内で反対運動が起こったため、11月に隠居を取り消して許している。 明治2年、新政府から功績があったとして1万石を加増される。直後の版籍奉還で宇都宮藩知事となり、明治4年の廃藩置県で藩知事を免職された。 大正13年(1924)2月2日に死去。享年78歳。 |
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