大雄寺

大関増裕墓 下野黒羽藩第15代藩主。
天保8年12月9日、遠江横須賀藩主西尾忠善の嗣子である西尾忠宝の三男として生まれる。
文久元年10月9日に先代藩主の増徳が隠居したため、その養嗣子として後を継いだ。
大関氏は本来なら外様大名の、しかも小大名だったために幕府の要職につくことがほとんどなかったが、増裕は譜代大名の名門・西尾氏の出身者だったため、文久元年11月に将軍・徳川家茂と拝謁して12月に従五位下、肥後守に叙任すると、文久2年には講武所奉行とその主宰、さらに槍奉行、陸軍奉行などの要職に任じられて、幕末の幕政に参与することとなった。
文久3年3月に病気のためすべての職を辞して帰国したが、慶応元年再び江戸に戻って海軍奉行に任じられ、慶応2年8月には若年寄格、慶応3年1月には正式に若年寄となり、幕政になおも参与した。
しかし、慶応3年12月9日、帰国途上で病により死去した。享年31歳。
大関増勤墓 下野黒羽藩第16代藩主。
嘉永2年1月5日、常陸府中藩主松平頼説の五男・谷衛滋(丹波山家藩主)の庶子として生まれる(松平頼説の三男・頼功の三男とする説もある)。
慶応3年12月に黒羽藩主・大関増裕が死去したため、慶応4年3月5日にその養子として家督を継いで第16代藩主となった。
戊辰戦争では新政府に恭順した。11月21日に従五位下・美作守に叙任する。
明治2年6月2日、新政府より永世賞典禄として15000石を与えられる。6月22日には版籍奉還により黒羽藩知事に任じられ、明治4年7月14日の廃藩置県で藩知事を免職され江戸に移った。
明治38年8月9日死去。享年57歳。
戦死吊祭塔  
黒羽表忠之碑 明治2年12月建立。
野口右衛門墓 黒羽藩。
明治元年8月8日武蔵杉戸で土賊(幕兵とも)に刺殺される。32歳。
益子四郎墓 黒羽藩。
小隊長。江戸に学び洋式兵法、砲術に長ず。物頭。
明治元年8月23日下野小谷村で戦死。22歳。
高橋亘理墓 黒羽藩。
鹿之助とも。小隊長。
明治元年9月14日若松城下で戦死。35歳。
藪智次郎墓 黒羽藩。
明治元年5月26日磐城白河白坂で傷、明治2年4月7日死。17歳。