母成峠

母成峠古戦場 二本松を攻略した西軍の征夷大総督府大村益次郎は、会津を取り巻く諸藩から先に平定し、会津への包囲網を縮めていく作戦を画策していた。しかし二本松にあった現地参謀の薩摩藩・伊地知正治、土佐藩・板垣退助らは大村の意見に反対し、降雪前の会津攻撃を主張した。
結局は、現地参謀の意見が採用され会津速攻に決定したが、伊地知は母成峠→猪苗代→若松の湖北口を主張、板垣は御霊櫃峠→中地三代→若松の湖南からの迂回路をそれぞれ主張。長州藩の桃村発蔵の説得により伊地知の意見が通り、母成峠を攻撃することに決した。
8月20日、薩摩、長州、土佐、佐土原、大村、大垣の兵約3000人は進撃を開始、300人の別働隊が中山峠を目指す陽動作戦もとられた。
これに対して東軍は大鳥圭介の伝習隊400人を中心に会津兵、二本松兵、新撰組など約800名であった。
西軍は石莚の農民が村を焼かれて東軍を恨んでいることを知り、村民を諭して後藤要助らに間道の道案内をさせ東軍の懐中に出ると砲台を側面から攻撃。午前11時頃には3つの砲台が西軍に奪われ藩境の一角はついに破られた。
東軍殉難者慰霊碑 母成峠で戦死した東軍戦死者58名の名が刻まれている。

東軍戦死58名
東軍殉難者埋葬地 上記の戦死者の大半が埋葬されているという。
西郷頼母歌碑 なき魂も 恨みは晴れて けふよりは
ともに長閑く 天かけるらん
銚子ヶ滝 母成峠の戦いにおいて新撰組や二本松兵が布陣した。
間道より進撃した西軍に背面攻撃を受けて敗走。