赤谷

會藩戦死碑 戊辰当時の赤谷は会津藩領であり、境川を挟み新発田藩と相対していた。
赤谷地区住民は会津藩代官の命により老若男女避難したが、屈強の男子や重立衆は会津藩に組して一部は農兵、力卒となり、物資の運搬、伝令、死傷者の後送など懸命に使役活動に従事した。
戦後、住民はこぞって戦後処理に従事し、この地に散った会津藩士の霊を弔うべく明治17年7月にこの碑を建立した。